<春分>春の秒針、旅立つあなたへ

<春分>春の秒針、旅立つあなたへ

 春は、音のない季節だった。

 街路樹のつぼみが静かに膨らみ、川の流れが淡く光をたたえる。目に見えない時間がそこに確かに流れているのに、何も変わらないような錯覚を覚える。

 あなたは、この町を出て行く。

 駅までの道を並んで歩きながら、私はふと、時計の秒針に耳を澄ませた。カチ、カチ、と、まるでこの春の空気を切り取るように音を刻んでいる。それは、あなたが確かにここにいることを示しながらも、同時に、確実に遠ざかっていくことを告げる音だった。

「もう戻らないの?」

 そう問いかけた私に、あなたはふっと笑う。

「戻れないよ。時間はいつも前にしか進まない」

 知っていた。分かっていた。それでも、どうしようもなく寂しさが胸を締めつける。

 あなたの旅立ちは、決して特別なものではない。ただ、新しい場所へ向かい、そこで新しい時間を生きるという、それだけのこと。それでも私には、この町の景色がすっかり変わってしまうように思えた。

 駅に着くと、ホームには数人の乗客が立っていた。春の日差しが薄くガラスの向こうを照らし、どこまでも静かだった。まるで、これが旅立ちの瞬間だと気づかせまいとしているみたいに。

 やがて電車が滑り込んできて、あなたは小さく息をついた。そして、「じゃあね」とだけ言って、足を踏み出した。

 扉が閉まる瞬間、私は無意識に時計を見た。秒針は、今も変わらず進んでいる。

 カチ、カチ。

 やがて電車が動き出し、あなたの姿がゆっくりと遠ざかっていく。私は、その残像を目で追った。風が吹いて、桜の花びらがひとひら舞う。

 あなたの旅立ちは、時間の流れに刻まれ、やがて私の中で過去になるのだろう。

 でも、今だけは――

 この春の匂いと、秒針の音と、あなたの後ろ姿を、胸にしまっておく。

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