<立春>緋色の鶴の祈り

<立春>緋色の鶴の祈り

昔々、山深い村に「立春山」と呼ばれる峠がありました。

その山を越えるときは、冬の終わりを告げる春一番の風が吹くと言われていました。

しかし、その風は人々にとって、祝福ではなく恐れをもたらすものでした。

その風とともに「緋色の鶴」が現れるからです。

緋色の鶴は、大きな翼を広げ、真紅の羽毛を纏い、異界からの使者のようでした。しかし、鶴が現れると必ず村の誰かが姿を消しました。

いつしか人々は緋色の鶴を「災いの鳥」と呼び、立春山を避けるようになったのです。

それでもある年、村の若者・弦(げん)は緋色の鶴を追う決意をしました。

幼いころ、立春山の風が吹いた夜、彼の姉が忽然と消えたからです。

「緋色の鶴の正体を暴けば、姉を取り戻せるかもしれない」

――その思いだけが、彼を突き動かしていました。


立春の夜、冷たい風が村を包み、緋色の鶴が空を舞う
姿を見つけた弦は、音もなく山道を進みました。
月明かりに照らされ、鶴は迷いのない羽ばたきで弦を山奥へと誘います。

山の頂で、不思議な光景を目にしました。
そこには、見たこともない静かな湖が広がり、湖面には村人たちが薄青い影となって漂っていたのです。
そして湖のほとりには、緋色の鶴が佇んでいました。

湖面から姉の声が響き、弦は湖に駆け寄ろうとしましたが鶴が翼を広げ、彼の行く手を遮りました。
鶴の瞳は深紅に輝き、悲しげな響きを帯びた声が弦の心に直接響きます。

「春を呼ぶためには、代償が必要なのだ。」

緋色の鶴は語り始めました。
この湖は、村人たちの悲しみと恐れが形を成した場所であり、彼はその感情を抱えて春をもたらす役目を負っているのだと。
「立春山の霊を鎮めるには、人の命が捧げられる。それが私の運命だ」と。

弦は、冷たい声で叫びました。「そんな理不尽なことがあっていいのか。春なんていらない、姉を返してくれ!」

緋色の鶴の目が微かに揺れました。「では、私を討つか?」と静かに問いかけます。
弦は刀を手にしましたが、鶴を傷つけることはできませんでした。
その悲しみが、彼の心に重くのしかかったからです。

夜明けが近づき、鶴は静かに言いました。
「もし代わりの約束をするなら、村人たちを解放しよう。ただし、その代償は……お前の声だ。」

弦は、迷うことなく頷きました。

「それで姉が戻るのなら、声などいらない」と。

鶴が翼を広げると、弦の声は風に溶けるように消えました。
そして湖面の影たちは解き放たれ、朝の光の中に溶けていきました。
姉が弦に駆け寄り、涙を流しました。「ありがとう、弦……」

それでも、弦が声を発することは二度となく、彼自身も村に戻ることはありませんでした。
彼は緋色の鶴とともに、立春山に消えたのです。
それ以降、緋色の鶴の姿は村に現れず、立春の風も静寂に包まれました。

村人たちは、山を越えるたびに囁きます。
「春は弦が呼んでくれる。彼の犠牲を忘れてはならない」と。

静かな空気に包まれた立春山では、いまもどこかで緋色の鶴が弦の声を守り続けているかのようでした。

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